8世紀―手づかみから箸を使うマナーへ
「箸」は古代中国に起源し、紀元前5世紀から普及している。朝鮮では三国時代の523年に建造された百済の武寧王墓から箸と匙が発掘されたのが、朝鮮人が箸を使用して食事をしていたことを示す最古の証拠である。
飛鳥時代には日本は中国と交流をしていたが、日本で箸が使用された最古の証拠は8世紀の平城京跡からである。また、宮殿や役所の後からは箸が多く発見されているが、住宅区域からは発見されることは希である[p82]。これは、役人も帰宅して自宅で食事をする際には手づかみで食べていたことを意味する。一方、長岡京では一般の住居からも箸が発見されている[p83]。
縄文時代では強要のひとつの食器に持った食物を皆が手づかみで食べていた。弥生時代の後期、2世紀後半から3世紀には同じ形状の素焼きの食器が4〜5個発見されるため、ひとりひとりが自分用の食器にもりわけていた[p85]。『魏志倭人伝』では3世紀の日本人は「手食す」と記されている。中国では箸を用いて食事をするのがマナーであり、手づかみで食べるのは野蛮人であった。この文脈では日本人は8世紀後半になってようやく文明化した食事をするようになったといえる[p83]。
中国、朝鮮半島では、箸だけでなく、匙を用いて食事をするのが原則である。中国北部ではインディカ米であったので飯を食べるときにも匙を用いた。一方、長江下流域では粘り気の多いジャポニカ米が食され、彼らが建国した明王朝のときに箸を用いて米飯も食べることが中国全土に普及した[p83]。
日本でも奈良時代から平安時代の宮廷での公式の食事では、貴族たちは当時の中国式にならって箸と金属製の匙を用いた食事をしていた。しかし、金属製の匙は高価であることから、民衆の間では口につけても熱くない木製の椀を手で持って食べていた。10世紀に中国との公式の外交関係がなくなると、貴族たちも匙を用いた食事を次第に止め、すべての日本人が箸だけで食べるようになった。
朝鮮半島では箸と匙をセットで使用する古い中国の習慣が現在でも残されている。箸は副食物をつかむために用い、飯やスープは匙で食する。朝鮮半島の食事作法ではヨーロッパと同じようにすべての食器は膳に置いたまま使用し、食器を手で持ち上げず箸と匙で口に運ぶ。朝鮮半島の人からすると椀を手で持ち上げて食べる日本人の食事作法は「乞食の食べ方」と評される[p84]。
なお、東アジアの伝統的な食事法ではナイフを使用して食卓で食物を切り分けることはしない。したがって、料理の最初に材料を小さく切り刻むことが東アジアの料理の特色のひとつである。そのための道具としてまな板が台所の必需品となったが、世界的にはまな板がない台所も多い[p84]。
お茶と侘び錆び
嵯峨天皇(786〜842年)が815年(弘仁6年)に、中国の留学経験を持つ僧侶、永忠(743〜816年)の寺院で茶を飲んだのが、最古の喫茶の記録である。永忠は中国から帰国する際に茶のタネを持ち帰り、自分の寺に茶園を作った。嵯峨天皇は茶を毎年献上することを明示、京都にも茶園を作った。
こうして9世紀には貴族や僧侶のサロンでお茶を飲むことが広がった。喫茶は中国文明へのあこがれから限られた階層へのファッションであった[p105]。そして、遣唐使廃止後には茶に関する記録は少なくなる。
栄西は『喫茶養生記』を著述し、宋代の喫茶法をもたらした。それは、茶の芽をつみとった後、乾燥させた葉を石臼で粉末にした「抹茶」である。300年前の茶は発酵を伴う製法での「磚茶(たんちゃ)」で、その香りが日本人の嗜好にあわなかったが、抹茶は嗜好にあったために、寺院と上級武士の社会から浸透をはじめ、13世紀末には民衆の間にまで広がった[p106]。
15世紀後半からは内面的・精神的な美学を喫茶の場に持ち込むとする動きが始まる。16世紀には当時の貿易港であった堺の裕福な市民の支持を得て、世俗的な世界から隠遁し簡素な生活の中で、簡素で洗練された美を追求する「侘び」がブームとなる。それは禅宗が追及する精神的境地と共通するものがあった[p107]。
茶道の創始者となった千利休(1522〜1591年)が完成させた茶の湯の形式では、茶会は二部にわかれる[p108]。前半は、濃厚な茶の刺激を和らげるために、「一汁三菜」からなる「懐石」の食事が中心となる。その後には様々な料理が追加されるが、当初の懐石は著しく質素なものであった。食後に菓子を食べた後、客は茶室を出て庭で休憩する。その後は後半となる。まず「濃茶手前」といって濃厚な茶を順次回し飲みをする[p109]。その後、抹茶の量を少なくした「薄茶」を飲んで茶会は終了する[p110]。茶会での食事作法や料理の盛り付けは、日本料理の盛り付けの美学の基本となった[p111]。
食事の回数の変化
中世までは正式な食事は1日に二度であった。大工や兵士、農民のように重労働に従う人は、二度の食事の他、簡単な間食事はとっていた[p125]。しかし、1221年(承久3年)、順徳天皇(1197〜1242年)は1221年(承久3年)の著作『禁秘抄』の中で、かつては1日に朝夕、2食であったものが、3回に変化したと述べている[p126]。禅僧の僧院では、朝夕の二度の食事の間でも、昼に麺類や饅頭等の軽食を食べる習慣があり、これを「点心」と呼んだ[p95,p126]。また、茶を飲むときに菓子や果物をつまむ中国の飲茶の風習を普及させたが、これを「茶の子」と呼んだ[p96,p126]。16世紀の寺院では、これが朝食の位置を占めるようになり、京都の民衆でも3食がふつうになっていた。
一方、16世紀末から17世紀のはじめまでは、地方の武士たちの間では1日2食であったことを示す記録が残されている。しかし、その後、17世紀には全国ほとんどが3食になる。このころには灯火が民衆の家屋にも普及し、蝋燭の製造もなされるようになる。年では夜の生活が長くなり、2食では足りず3食化したのだと考えられている[p126]。
蕎麦とうどん
麺類は中国を起源とする食品で、イタリアのスパゲティのような麵上のパスタもシルクロード経由で駐豪から伝播したとされている。
小麦が中国の華北平野で栽培されるようになるのは戦国時代(紀元前403〜前221年)である。西方ではコムギ粉をパンやナンに加工してオーブンで焼いていたが、団子状にして汁で煮てスープにいれる食べ方ができ、その後、紐状に伸ばして汁がよく絡むようにした。麺類が中国でよく食べられるようになったのは唐代になってからである[p96]。
江戸時代には都市に麺食専門の軽食店が出現し、17世紀には「うどん・そば切り」の看板をかけたが、うどんの方がソバよりも上位に記されていた。ソバは痩せた土地の荒耕食として栽培されたために小麦に比べて格が低い作物とされていたからである。しかし、18世紀になると、江戸では地域が逆転してソバが主流となる。ソバ通と言われる人々が出現し、ソバを趣味性が高い料理にまで洗練させた。江戸では濃口醤油の濃厚な味にあうように大量の鰹節を使用したそばつゆが作られたが、関西では薄口醤油と昆布出汁のうどんつゆが用いられた[p290]。
日本で中華料理が流行するようになるのは1910年代になってからである。1923年(大正12年)には東京市とその周辺には洋食屋が約5,000軒、中華料理屋が約1,000軒に達した。横浜や神戸の中華街で中国人の料理人が中国人の顧客を相手に作るものとは異なり、日本に居住する華僑は、日本人の嗜好にある料理を安価で提供した。こうして日本的に変形された中華料理が形成されたが最も人気があったのは「シナそば」であった。そばやうどんといった伝統的な麺類は夜食用に行商で売られていたが、その習慣の上に1910年代の終わり頃からは大都市では「シナそば」の行商が盛んとなる[p193]。ソバやうどんから、鳴門巻と刻みネギが「シナそば」にも使われるようになり[p194,p291]、第二次大戦後には、さらに変化を遂げ、シナそばは差別的な言葉として次第に使用されることがなくなり、現在はラーメンと呼ばれ、日本の国民的料理となった[p194,p290]。ラーメンは、中国語で手延べ麺を意味する「拉麺(ラーミェン)」に由来するとされる[p291]。
編集後記
本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第3章「日本的食文化の形成期」第4章「変動の時代」、第2部第3章「外食、料理、飲み物」のうち、食事作法についてのカ所のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。なお、文化人類学者の石毛直道にシルクロードを通じて、世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて、麺の系譜図を完成させ、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示したのは安藤百福である。
【画像】
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【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店


