2026年10月12日

日本の食文化史�F―食文化

8世紀―手づかみから箸を使うマナーへ

 「箸」は古代中国に起源し、紀元前5世紀から普及している。朝鮮では三国時代の523年に建造された百済の武寧王墓から箸と匙が発掘されたのが、朝鮮人が箸を使用して食事をしていたことを示す最古の証拠である。

 飛鳥時代には日本は中国と交流をしていたが、日本で箸が使用された最古の証拠は8世紀の平城京跡からである。また、宮殿や役所の後からは箸が多く発見されているが、住宅区域からは発見されることは希である[p82]。これは、役人も帰宅して自宅で食事をする際には手づかみで食べていたことを意味する。一方、長岡京では一般の住居からも箸が発見されている[p83]。

 縄文時代では強要のひとつの食器に持った食物を皆が手づかみで食べていた。弥生時代の後期、2世紀後半から3世紀には同じ形状の素焼きの食器が4〜5個発見されるため、ひとりひとりが自分用の食器にもりわけていた[p85]。『魏志倭人伝』では3世紀の日本人は「手食す」と記されている。中国では箸を用いて食事をするのがマナーであり、手づかみで食べるのは野蛮人であった。この文脈では日本人は8世紀後半になってようやく文明化した食事をするようになったといえる[p83]。

 中国、朝鮮半島では、箸だけでなく、匙を用いて食事をするのが原則である。中国北部ではインディカ米であったので飯を食べるときにも匙を用いた。一方、長江下流域では粘り気の多いジャポニカ米が食され、彼らが建国した明王朝のときに箸を用いて米飯も食べることが中国全土に普及した[p83]。

 日本でも奈良時代から平安時代の宮廷での公式の食事では、貴族たちは当時の中国式にならって箸と金属製の匙を用いた食事をしていた。しかし、金属製の匙は高価であることから、民衆の間では口につけても熱くない木製の椀を手で持って食べていた。10世紀に中国との公式の外交関係がなくなると、貴族たちも匙を用いた食事を次第に止め、すべての日本人が箸だけで食べるようになった。

 朝鮮半島では箸と匙をセットで使用する古い中国の習慣が現在でも残されている。箸は副食物をつかむために用い、飯やスープは匙で食する。朝鮮半島の食事作法ではヨーロッパと同じようにすべての食器は膳に置いたまま使用し、食器を手で持ち上げず箸と匙で口に運ぶ。朝鮮半島の人からすると椀を手で持ち上げて食べる日本人の食事作法は「乞食の食べ方」と評される[p84]。

 なお、東アジアの伝統的な食事法ではナイフを使用して食卓で食物を切り分けることはしない。したがって、料理の最初に材料を小さく切り刻むことが東アジアの料理の特色のひとつである。そのための道具としてまな板が台所の必需品となったが、世界的にはまな板がない台所も多い[p84]。

お茶と侘び錆び

 嵯峨天皇(786〜842年)が815年(弘仁6年)に、中国の留学経験を持つ僧侶、永忠(743〜816年)の寺院で茶を飲んだのが、最古の喫茶の記録である。永忠は中国から帰国する際に茶のタネを持ち帰り、自分の寺に茶園を作った。嵯峨天皇は茶を毎年献上することを明示、京都にも茶園を作った。

 こうして9世紀には貴族や僧侶のサロンでお茶を飲むことが広がった。喫茶は中国文明へのあこがれから限られた階層へのファッションであった[p105]。そして、遣唐使廃止後には茶に関する記録は少なくなる。

Myoan-Eisais.png 約300年の中断の後、中国に留学した禅僧、栄西(1141〜1215年)は鎌倉に寿福寺を開山し、二度目の留学の祭に茶の種あるいは苗を持ち帰り、日本で栽培した。

 栄西は『喫茶養生記』を著述し、宋代の喫茶法をもたらした。それは、茶の芽をつみとった後、乾燥させた葉を石臼で粉末にした「抹茶」である。300年前の茶は発酵を伴う製法での「磚茶(たんちゃ)」で、その香りが日本人の嗜好にあわなかったが、抹茶は嗜好にあったために、寺院と上級武士の社会から浸透をはじめ、13世紀末には民衆の間にまで広がった[p106]。

 15世紀後半からは内面的・精神的な美学を喫茶の場に持ち込むとする動きが始まる。16世紀には当時の貿易港であった堺の裕福な市民の支持を得て、世俗的な世界から隠遁し簡素な生活の中で、簡素で洗練された美を追求する「侘び」がブームとなる。それは禅宗が追及する精神的境地と共通するものがあった[p107]。

 茶道の創始者となった千利休(1522〜1591年)が完成させた茶の湯の形式では、茶会は二部にわかれる[p108]。前半は、濃厚な茶の刺激を和らげるために、「一汁三菜」からなる「懐石」の食事が中心となる。その後には様々な料理が追加されるが、当初の懐石は著しく質素なものであった。食後に菓子を食べた後、客は茶室を出て庭で休憩する。その後は後半となる。まず「濃茶手前」といって濃厚な茶を順次回し飲みをする[p109]。その後、抹茶の量を少なくした「薄茶」を飲んで茶会は終了する[p110]。茶会での食事作法や料理の盛り付けは、日本料理の盛り付けの美学の基本となった[p111]。

食事の回数の変化

 中世までは正式な食事は1日に二度であった。大工や兵士、農民のように重労働に従う人は、二度の食事の他、簡単な間食事はとっていた[p125]。しかし、1221年(承久3年)、順徳天皇(1197〜1242年)は1221年(承久3年)の著作『禁秘抄』の中で、かつては1日に朝夕、2食であったものが、3回に変化したと述べている[p126]。禅僧の僧院では、朝夕の二度の食事の間でも、昼に麺類や饅頭等の軽食を食べる習慣があり、これを「点心」と呼んだ[p95,p126]。また、茶を飲むときに菓子や果物をつまむ中国の飲茶の風習を普及させたが、これを「茶の子」と呼んだ[p96,p126]。16世紀の寺院では、これが朝食の位置を占めるようになり、京都の民衆でも3食がふつうになっていた。

 一方、16世紀末から17世紀のはじめまでは、地方の武士たちの間では1日2食であったことを示す記録が残されている。しかし、その後、17世紀には全国ほとんどが3食になる。このころには灯火が民衆の家屋にも普及し、蝋燭の製造もなされるようになる。年では夜の生活が長くなり、2食では足りず3食化したのだと考えられている[p126]。

蕎麦とうどん

 麺類は中国を起源とする食品で、イタリアのスパゲティのような麵上のパスタもシルクロード経由で駐豪から伝播したとされている。

 小麦が中国の華北平野で栽培されるようになるのは戦国時代(紀元前403〜前221年)である。西方ではコムギ粉をパンやナンに加工してオーブンで焼いていたが、団子状にして汁で煮てスープにいれる食べ方ができ、その後、紐状に伸ばして汁がよく絡むようにした。麺類が中国でよく食べられるようになったのは唐代になってからである[p96]。

 江戸時代には都市に麺食専門の軽食店が出現し、17世紀には「うどん・そば切り」の看板をかけたが、うどんの方がソバよりも上位に記されていた。ソバは痩せた土地の荒耕食として栽培されたために小麦に比べて格が低い作物とされていたからである。しかし、18世紀になると、江戸では地域が逆転してソバが主流となる。ソバ通と言われる人々が出現し、ソバを趣味性が高い料理にまで洗練させた。江戸では濃口醤油の濃厚な味にあうように大量の鰹節を使用したそばつゆが作られたが、関西では薄口醤油と昆布出汁のうどんつゆが用いられた[p290]。

 日本で中華料理が流行するようになるのは1910年代になってからである。1923年(大正12年)には東京市とその周辺には洋食屋が約5,000軒、中華料理屋が約1,000軒に達した。横浜や神戸の中華街で中国人の料理人が中国人の顧客を相手に作るものとは異なり、日本に居住する華僑は、日本人の嗜好にある料理を安価で提供した。こうして日本的に変形された中華料理が形成されたが最も人気があったのは「シナそば」であった。そばやうどんといった伝統的な麺類は夜食用に行商で売られていたが、その習慣の上に1910年代の終わり頃からは大都市では「シナそば」の行商が盛んとなる[p193]。ソバやうどんから、鳴門巻と刻みネギが「シナそば」にも使われるようになり[p194,p291]、第二次大戦後には、さらに変化を遂げ、シナそばは差別的な言葉として次第に使用されることがなくなり、現在はラーメンと呼ばれ、日本の国民的料理となった[p194,p290]。ラーメンは、中国語で手延べ麺を意味する「拉麺(ラーミェン)」に由来するとされる[p291]。

Momofuku-Andos.jpg 1958年には世界で最初の即席麺である「チキンラーメン」が販売された[p292]。これを開発した安藤百福(1910〜2007年)は1971年には「カップヌードル」を発明する。ラーメンは椀状の食器と箸がないと食べづらいため、チキンラーメンは椀や箸を使用して食事をする地域以外には普及しづらかったが、カップヌードルは伝統的に麺食の習慣がなかった地域にまで普及する世界的な商品となった。2003年における世界での即席麺の消費量は1,014億食であり、人類は1年に1人当たり14.4食の即席麺を食べていることになる[p293]。

編集後記

 本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第3章「日本的食文化の形成期」第4章「変動の時代」、第2部第3章「外食、料理、飲み物」のうち、食事作法についてのカ所のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。なお、文化人類学者の石毛直道にシルクロードを通じて、世界各地に伝搬した麺の歴史を研究させて、麺の系譜図を完成させ、「ラーメンは中国を起源とし、シルクロードを通ってイスラム世界に伝わり、さらにイタリアへ伝わった」と見解を示したのは安藤百福である。

【画像】
栄西の画像はこのサイトより
安藤百福の画像はこのサイトより
書籍の画像はこのサイトより

【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月11日

日本食文化史�E―裕福な江戸庶民によるグルメ文化の発展

江戸時代に伝統的な食文化が完成

 江戸時代は現代につながる伝統的な食文化が完成した時代である。そのほとんどの期間が鎖国下にあったために海外から新たな食についての文化要素を取り入れることが少なく、その前の時代までの文化要素が整理され体系化された。明治時代以降は近代化によって新たな食べ物や料理法を導入することに精力が傾けられるが、それまでの伝統的な食文化をさらに洗練させ変化させる努力はあまりなされなかった。すでに完成度が高くなっていたからである。すなわち、現代の日本人が「伝統的」と考える食べ物に対する価値観や料理法、食事方法が完成された時代であり、現在に受け継がれる伝統料理の大半は徳川政権下での200年以上に及ぶ平和の時代に生み出されたものなのである[p128]。

商人と職人が築いたと都市的食文化

 世界の多くの国においては、洗練された食事や衣服のファッションは宮廷や貴族社会に始まり、次第に下の階級に浸透するというように、上から下への経路をたどって普及するのが一般的である。しかし、この傾向は江戸時代の日本にはあてはまらない。食べ物だけでなく、着物や髪形等のファッションも大都市の芝居の役者や遊郭の女性に起源するものが大半を占め、武士や農民に起源するものはほとんどない[p131]。

 江戸時代の主な社会階級は武士、国民の90%を占める農民、職人、生産に従事しない商人からなっていた。武士階級は農民をなるべく自給自足経済にとどめておこうと努め、農民の贅沢を禁じる政策を取った。武士自身も禁欲的なモラルを守ることが求められ、贅沢な食事を楽しんだり、食べ物に対して不平を言ったりすることは「武士らしくない」とする社会規範が産まれた。一方、平和な時代が続いて都市が発展すると商品流通に携わる商人たちの経済的実力が高くなっていく。富は商人階級に集中し、18世紀になると武士ではなく商人たちが経済を動かすようになっていく[p130]。日本では市民革命は起こらなかったために、制度的には特権階級である武士の支配が続いていたが、実際には、ブルジョワジーである商人と都市のプロレタリアートである職人とで形成される市民社会が大都市では成立していたのである[p131]。

レストランの出現

 世界の中でも最も古くから外食店が発達したのが中国である。前漢の中頃から都市には料理屋や酒場があったし、商業が発達した宋代になるとレストランの名に値する外食施設が都市に成立した。しかし、他地域では享楽のための食事が供され、社交の場ともなるレストランが出現するのは近代になってからである。

 例えば、西欧では18世紀頃までは街道や街に簡単な食事と酒が供される場所しかなく[p143]、最上級の食事が味わえる食堂は宮廷や貴族の館等、社会の最上級階層に独占されていた。しかし、フランス革命(1789〜99年)で料理人たちが貴族の雇い主を失うと、彼らは都市で「レストラン」を開業するようになる。絶対王政が崩壊し、市民社会が成立することで誰もが洗練された食事を享楽できるようになった[p144]。

 朝鮮半島では李氏朝鮮王朝が商業活動を蔑視したため、外食店が発達せず、ソウルに料理店が開業するのは、日本が朝鮮半島鬼進出し近代化を力ずくで迫った19世紀末から20世紀初頭のことである。ソウルにできた最初の高級レストランは1887年に開業した日本料理店だった[p143]。一方、日本でも西洋の影響がないにも関わらず、市民社会の成熟を基礎に上等な料理を供する外食産業が成立した[p143,p144]。

 本格的な料理屋は、京都と大阪で1680年代に原型が成立するが、1760年代には江戸の両国にも3軒の料理茶屋があったとの記録が残る[p146]。

 料理茶屋が出現する以前は、高級武士の宴会は自宅で行われていた。彼らの邸宅の方が立派であり、給仕を行う召使も雇われていた。しかし、その料理が本当においしかったかどうかは疑問をさしはさむ余地がある。こうした邸宅で雇われた料理人たちは、ややもすると実質的な味よりも伝統的な形式を重んじる傾向があったからである。

 しかし、商業的な外食施設である料理茶屋ではおいしい料理を供さない限り客は来てくれない。その主な顧客層は、儀式や行事とは無関係で美味しい料理をくつろいだ雰囲気の中で楽しむことを望んだ裕福な商人であった。こうした状況の下、幕府の料理人の流派とは別に商業的料理に従事する町方の料理人のギルドがつくられ、それがいくつもの流派へとわかれていく[p147]。

 武士階級も各藩が江戸の屋敷においた留守居役と呼ばれる外交官の役目を持つ上級武士は、藩の費用を使って料理茶屋で会談し、藩同士の外交交渉を行ったり、豪商と会って藩の財政不足を補うための借金を依頼したりした。そこで、江戸の高級な料理茶屋は「留守居茶屋」と呼ばれた。現在も政治家が高級料亭で会合を開いているが、それは18世紀にまでさかのぼる風習である[p148]。

江戸は世界で最も飲食店が密集した都市

 19世紀前半の江戸は当時、世界でも最も飲食店が密集していた都市であった。1814年(文化11年)の江戸の「町触」によれば、江戸市街で営業していた飲食店は7,603軒あった。当時の推計人口から計算すると住民160人に対して1軒である。内訳は、菓子屋が2,866軒で最も多く、居酒屋等飲食店が2,374軒、うどんと蕎麦屋が718軒、蒲焼き屋が237軒、寿司屋が217軒、料理茶屋が938軒である。行商の食べ物売りや芝居町や遊里での店数は調査対象外であったことから、実施にはさらに多数の飲食店があったはずである[p149]。

 こうして大都市の市民の中から食べ物に対する教養を身に付けた「食通」と呼ばれる人々が出現する。季節に先んじて、その時節の最初の野菜や魚を高額で入手して食べることが流行となり、それほど裕福ではない大工等の職人も10日あとになれば10分の1の値段になる初物カツオ1匹を10日分の賃金に相当する額を支払って刺身にして食べることを自慢したりした[p137]。職人や人夫は収入が少なくても日給で現金を手にすることが多く、江戸では仕事がいっぱいあったために、貯蓄には熱心ではなく、「宵越しの金」を持つことを恥じ都市、浪費を悪徳とはみなさない気風もあったことから、外食に金を使った。そこで、飲食店も発達した[p151]。ただし、日常の食事は質素であり、市民の多くの食事は朝はコメの飯と味噌汁と漬物の献立で、昼と晩には野菜や豆腐を煮たもの、あるいは煮魚か焼いた副食物が1品追加される程度であった[p138]。

料理書と外食ガイドブックの出版

 鎌倉時代末の13世紀の『厨事類記』が料理の作り方を具体的に記述した最古の料理本である。著者は宮廷や室町幕府の将軍に使える料理人で、読者もこうした宴会の料理を作る料理人やそうした宴会に出席する資格を持つ者で、限られたサークルの中を流通していたにすぎない[p153]。

長い間、料理の技術は見習ったり聞き伝えで伝承されるものであったが、日本は世界で最高の識字率の国であったため、江戸時代は出版文化も盛んになった。そして、料理本も江戸時代には出版されるようになる[p153]。最初の近代的な料理本は1600年前後に刊行されたとされる『料理物語』である。現存する最古の版は1643年(寛永20年)のものである[p154]。

 中国の医学・薬学の影響で成立した博物学『本草学』の研究者たちによって、料理の素材についての研究書も刊行されるようになる。それぞれの食物の健康への効果を述べ、疾病を治療し、健康を維持するには、どのような食物を選択したらよいかを説いている。この代表的なものが1697年(元禄10年)の人見必大(1642年頃〜1701年)の『本朝食鑑』である。同書は、日本産の動植物を分類し、その料理法、薬学的特徴、民俗学的事項等について挿絵入りで詳しく解説している[p155]。

 都市で外食店が増え始める1760年代からは、料理書の刊行数も増える。それ以前の料理書は、著者が料理人で読者も料理人を想定して書かれ専門書としての性格が強かったが、18世紀後半からは、一般大衆を読者に想定し、文才のある知識人の料理書が多くなった。文学作品のパロディを記述したり、挿し絵をふんだんに利用したり、珍奇な料理を紹介したり、実用的な教科書にとどまらず、面白い読み物としての性格も備えており、当時発達していた貸本屋を経て、民衆の読者層を獲得した。

2026100601s.jpg その一例が大阪の書店が1782年(天明2年)に刊行した『豆腐百珍』である。100種類の豆腐の料理方法を紹介するだけでなく、豆腐についての中国と日本の文学作品を抜粋したり、豆腐の歴史についても記述した[p155]。著者は、酔狂道人何必醇とされているが、曽谷学川(1738〜1797年)のペンネームと推定される。この本は成功し、京都、江戸の書店でも販売された。天明5年には『鯛百珍』、天明6年には『大根百珍』と百珍本シリーズの料理人が次々と刊行され、ベストセラーづくりのために、料理書も出版企画に取り上げられるようになった[p156]。

 17世紀の中頃にはソバは下等な食べ物とされ、ソバの屋台にいくのは貧乏人であった。しかし、18世紀前半になると立派な座敷を持つ蕎麦屋が出現し、18世紀末には江戸の大名屋敷で、上級の武士たちが「どっこの蕎麦屋がうまい、どこの寿司屋がうまい」と食べ物屋の評判を話すようになっていく[p152]。

 そこで、食べ歩きガイドブックも18世紀末から出版されるようになる。こうしたグルメ本が売られるようになったのは、選択に困るほど飲食店が増え、おいしい店に食べにいくことが、限られた階層の人々だけでなく、不特定多数の大衆の楽しみへと広がったことを意味している[p156]。つまり、ミシュランのレストランガイドが刊行される1世紀以上も前から、日本の大都市ではレストランガイドを参考に美食を楽しむ人々が出現した。

2026100602S.jpg 1848年(嘉永元年)に刊行された『江戸名物酒飯手引草』は、江戸における料理屋594店を内容別に分類し、店名と住所を記載している。例えば、ウナギのかば焼き店は90軒記載されているが、当時の江戸市街では約1,000軒のウナギ屋が営業していたことがわかる。その中からお勧めの90軒を紹介しているのである[p157]。

編集後記

本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第5章「伝統的な食文化の完成期」のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

【画像】
豆腐百珍の挿絵画像はこのサイトより
「二軒茶屋」の画像はこのサイトより。深川の富岡八幡宮境内にあった「松本(杉本)」と「伊勢屋」という2軒の有名な料理茶屋の総称。1841年(天保12年)頃から、水野忠邦による天保の改革での倹約令と風俗取締によって廃業を余儀なくされた。
書籍の画像はこのサイトより

【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月10日

日本食文化史�D―出汁とダイズ文化

出汁とうま味
 動物性のタンパク質や脂肪を含んだ食材は水で煮るだけでも脂肪やアミノ酸が溶け出しておいしくなる[p255]。しかし、肉食をしない日本の伝統的料理法では、中国や朝鮮半島のように哺乳類で汁物を作ることができなかった[p252]。そこで、鳥類や魚介類を一緒に煮ることで動物性食品のうま味を抽出していた。しかし、禅宗では一切の動物性食品を動物性食品を口にすることが禁じられている[p255]。そこで、僧院では昆布や椎茸のうま味が着目されて昆布だしで野菜を煮る技術が発達した[p95,p255]。こうして鰹節、煮干し、昆布、干し椎茸等の出汁が発達した[p252]。

 昆布の出汁のうま味はグルタミン酸であることを池田菊苗が発見し、翌年にはコムギからグルタミン酸を分離、結晶化して調味料にした「味の素」が販売された。一方、肉、鰹節、煮干しのうま味成分はイノシン酸であり、椎茸のうま味成分はグアニル酸である[p256]。しかし、グルタミン酸とイノシン酸をあわせると昆布の出汁の10倍以上のうまみが感じられることが科学的も証明されている。こうして日本ではうま味物質を工業邸に生産する日本独自の出汁産業が発達した[p257]。

 ただし、庶民の家庭料理で出汁が使われるようになったのは江戸時代以降のことであり、明治時代になってようやく常用されるようになった[p252]。

 702年(大宝元年)の『大宝律令』には朝廷への献上品として、「カツオ」や「煮カツオ」が出てくる。発酵調味料である醬や味噌とならんで調味料として用いられた。ただ、長い間鰹節は出汁の専用食品ではなく、そのまま食べる保存食品として作られた。室町時代末に成立した『大草殿より相伝之聞書』が鰹節で出汁をとった最初の記録である。そして、江戸時代には煮たカツオを煙で燻製した後に表面にカビを培養することで、水分と脂肪分を減らし、長期間保存できる、世界で一番硬い食品である鰹節が完成した。江戸時代の料理書には鰹節の記事がみられるが、これはプロの料理であり、庶民まで出汁を用いたかどうかは疑問が残る。江戸時代には包丁や小刀で鰹節を削っていた。鰹節の削り器は江戸時代に考案されたが、家庭に普及したのは明治時代になってからであり、全国の家庭の必需品となるのは昭和になってからである[p253]。

 煮干しも18世紀からあったが、煮干しづくりが盛んになるのは明治20年代以降である。

 北海道や東北の昆布は奈良時代から都に運ばれていたが、古代、中世にはそのままか火にあぶって保存食品として食されていた。昆布が出汁として使われるようになったのは室町時代に福井県の敦賀に水揚げされ、琵琶湖を経由して京都に運ばれるようになってからである。江戸時代に蝦夷地が開拓されると北前船で大量の昆布が大阪に州かされ、そこから全国に流通した[p254]。

 グアニル酸を含有する椎茸も以前は野生の椎茸を採集して利用していたが、17世紀から原木に切れ目を入れ、そこに天然の菌が付着するのを待つ半栽培が始まる。菌を植え付けて栽培がなされるようになるのは明治以降である[p255]。

醤油と味噌

 醤油と味噌はダイズを塩と麹を加えて発酵させた食品である。ダイズの発酵食品は漢代の中国で原型が成立し、朝鮮半島や日本へと伝えられた[p138]。中国では漢代以降も5世紀までは動物性の醬である塩辛と植物性の醬が共存していたが、その後は、植物性の醬が調味料の主流となった[p50]。

 弥生時代の遺跡からはダイズが発見される例が少ないことから、醬は古墳時代以降に日本に導入されたのであろう[p50]。702年(大宝元年)の『大宝律令』には、「豉(くき)」、「醬(ひしお)」と「未醬(みそ)」の名称がみられる。豉は、ダイズのカタチを残した発酵食品で現在の「大徳寺納豆」と同様である[p138]。10世紀の『延喜式』にはスープの材料として味噌が記録されているため、10世紀には味噌汁が存在していたことがわかるが、中世では日常食として味噌汁を食べることはなかった。味噌汁が普及するのは戦国時代からである。

 一方、醤油の製法は味噌よりも複雑で、高価なために醬汁を調味料とすることはなかなか一般化しなかった。醤油という名称が複数の文献に現れるのは16世紀以降である[p139]。16世紀後半には関西で醤油を製造する企業が成立し、海上輸送され他の地方にも販売された。とりわけ、江戸には関西から大量の醤油が運搬された。しかし、17世紀の中期以降は、銚子と野田で醤油産業が発達し、濃口醤油を作り出す。これが江戸人の嗜好にあって18世紀後半には江戸の醤油は千葉県産のものとなる。

 18世紀になると料理の味付けは主に醤油でなされるようになり、調味料として味噌が使われることはなくなり、ほぼ味噌汁専用の食品となった。

 農村では1950年代まで味噌は自家製造される一方、醤油づくりは複雑で自家製造には手間がかかるうえ液体を絞った残り滓は食べられないために、農家にとっては贅沢品である。そこで、普段は自家製の味噌で味付けをする料理を食べていた[p140]。しかし、20世紀に入ると農村でも日常料理に醤油を使うようになる。日本の料理の味は200年以上をかけて味噌味から醤油味へと変化した。それは、都市の味が農村に普及していく過程でもあった[p141]。

 現在でも醤油は万能の調味料である[p50,p141]。それは東アジアでも変わらない[p50]。欧米の台所で塩と胡椒が欠かせないように、日本では醤油が欠かせない[p141]。塩分の摂取源がイギリスでは塩が32%、肉や乳の畜産製品が35%となっているが、日本では食卓塩から摂られる塩分は13%にすぎず、45%は調味料から摂取され、うち43%を醤油と味噌が占めている[p50]。江戸時代に醤油が普及したことで、刺身にワサビをすりおろして添えて、醤油を入れて食べることが一般的となった。握りずし、テンプラ、照り焼きも江戸時代に普及したが、いずれも味付けに醤油を使っている[p142]。

豆腐と味噌

 肉や乳製品を欠落していた伝統的な食生活ではダイズ食品が重要なタンパク質の補給源となっていた[p273]。劉邦の孫にあたる淮南王が紀元前2世紀に豆腐を発明したとの伝説があるが、中国の文献に豆腐の文字が現れるのは9世紀末から10世紀初期である。しかし、それ以前の唐代の中頃(8〜9世紀)に北方の遊牧民が作るチーズ状の食品「乳腐」の製法にヒントを得て、中国人が発明したのだと推測される[p273]。

 中国に起源をもつダイズの加工食品「豆腐」の最初の記録は1183年(寿永2年)の奈良の春日若宮神社の神職の日記にあらわれる「唐符」である[p95,p275]。「湯葉」は豆乳を加熱したときに凝固したタンパク質の膜で[p276]、鎌倉時代に禅僧によって中国から伝えらえた[p95,p276]。寺院の精進料理で用いられたことから、寺院が多い京都で湯葉料理は発達した[p276]。小麦粉のグルテンを抽出した「麩」も鎌倉時代に中国から伝えられて僧院から普及した。

 僧院では、動物性タンパク質を禁じられていたため、こうした食べ物の製造法や調理法は寺院を中心に発達し、寺門の門前町でこれらを製造する専門業者が出現し、民衆へと広がった[p275]。

 13世紀は日本の宗教改革の時代で、中国仏教の影響を脱して日本独自の教義を作り上げた宗派がいくつも出現した。しかし、禅宗は日本化した仏教となることを拒否し[p281]、中国の禅宗を学ぶために僧侶を中国に留学させ、中国から高僧を招聘し続けた。こうした禅僧によって宗教思想だけでなく、中国の文化や新しい知識が持ち帰えられた。豆腐や湯葉、納豆と食品や料理法にも禅僧がもたらしたものが多い[p95,p281]。そして、鎌倉時代には武士は禅宗の信者が多かったため、禅寺の料理や食事作法が武士に取り入れられて広がった[p95]。現在でも有名な禅宗寺院の近くには豆腐料理の専門店がある[p275]。

 江戸時代の初期には豆腐を冷凍乾燥させた高野豆腐も作られるようになったが、江戸時代初期には豆腐はまだ高級食品であった。しかし、江戸時代の中期以降は都市に多数の豆腐屋が出現し、最も日常的な食品となった。しかし、農村においては豆腐屋はなく、製造に手間がかかるために自家製造して食べることは普段はなく、ハレの日の食べ物とみなされた[p275]。

納豆

 中国の古代には「淡豉(ダンチー)」が作られていたが、のちに塩を加えた「豆豉(ドウチー)」に変化した[p277]。煮たダイズにコウジカビ(アスペルギルス・ソーヤ)を移植して2〜3カ月塩水に漬けて発酵させてから乾燥させると、黒褐色をして八丁味噌に似た味の納豆ができる[p278]。日本では9世紀に存在していた。精進を守る寺院で発達したことから大徳寺で作られる「大徳寺納豆」のように寺院の名称がついている[p279]。

 糸引き納豆は、稲藁に付着している納豆菌(バチルス・ナットウ)が煮たり蒸したダイズに移って繁殖してできる[p276]。糸引き納豆も古い時代から存在した食品だが、粗野な食べ物とみなされたために中央の文献に記されることはなかった。15世紀中頃の『精進魚類物語』にあらわれる糸引き納豆が初出である[p277]。19世紀以前には、刻んだり、すりつぶして「納豆汁」にするのが、納豆の食べ方の主流であった。文政年間(1818〜30年)までは、江戸市街での納豆売りは、納豆汁用に「たたき納豆」といって納豆を刻んだものに、細かく切った豆腐、菜、薬味を添えて売りに北が、1830年の天保年間になると、粒納豆だけを売りに来るようになったという[p278]。

朝飯にパンを食べることが普及する以前の東京人の典型的な朝食は、飯と味噌汁、納豆、漬物であった。1950年代まで東京の市街では毎朝、納豆の行商人の売り声が聞こえた。

 西日本では納豆の消費量が少ないが、納豆を食べないのは都市部であり、京都北山の農村部では第二次大戦の頃まで糸引き納豆を自家製造していた[p278]。

漬物

 ヨーロッパではハム、ベーコン、ソーセージ、バター、チーズ等、肉や乳製品の保存食品が多いが、肉や乳製品を欠落した[p293]日本の主な保存食品の素材は、野菜、海藻、魚であった。

 野菜は塩を加えると乳酸菌や酵母の働きで長期保存できる漬物となる。内陸部に位置する京都では海産物を日常的に食べることが困難であることから、漬物が発達した[p294]。日本全国では1,000種類以上の漬物が存在するが、中でも代表となったのがタクアンと梅干しである。タクアンは17世紀から盛んに作られるようになり、梅干しは内戦が続いた室町時代後期から兵士の携帯食としてもよく用いられた[p295]。

 江戸時代には大都市には漬物の専門店ができたが、農村では自家製が普通で、1930年代では生産量の80%が自家製であった[p296]。

 昆布、ワカメ、海苔等の海藻は乾燥させることで腐敗を防止し、軽量化することで長距離輸送された。海藻の乾燥品は古代から全国で流通していた[p294]。

編集後記

本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第3章「日本的食文化の形成期」、第2部第2章「台所で」、第3章「外食、料理、飲み物」のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

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【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月09日

日本の食文化史➃―肉食のタブー

日本的食文化の形成

 古墳時代から7世紀までは朝鮮半島を仲介して中国文明が日本に伝えられた。百済や高句麗の滅亡に伴い多数の難民が日本に渡来し、大陸の文明がもたらされた[p57]。

 また、5世紀中頃からは須恵器と呼ばれる土器が食器として使われるようになる。須恵器は中国に起源をもち、朝鮮半島で独自に発展を遂げたうえ、日本に伝えられた。6世紀末になると、朝鮮半島を経由せず、中国文明を直接需要するように政策を転換する。600年に遣隋使を派遣して以来、838年に最後の遣唐使が出発するまで、計17回も公式使節団が中華帝国の首都を訪れた。これは中国文明を学ぶ機会でもあり、一回の使節団は大使以下250〜500人で構成され、その中には長期滞在する留学生や留学僧が含まれていた[p57]。

 894年に菅原道真(845〜903年)の提案によって遣唐使派遣が廃止されるのは、中国からの商人が日本へやってくるようになり、国費を投じて中国と文化接触を保つ必要がなくなったからである[p59]。

 16世紀に西欧文明と接触するまでは日本にとって模範とすべきは中国文明であった。事情は朝鮮半島やベトナム等、中国の周辺諸国の諸民族でも同じであった。しかし、海で隔絶された地理的条件にあったために、中華帝国の支配下に編成されることがなく常に独立を保てた[p56]。そこで、中国文明の中から自分たちが好む要素だけを選択的に取り入れて、日本の文脈に位置付けることが可能となった[p57]。

 すなわち、10世紀になるまでは、日本は、中国や朝鮮半島の食べ物や食事の慣習を輸入し、模倣することに努めた。それ以降は、海外からの影響を消化して、日本人の嗜好や習慣にあうものに再編成した[p56,p61]。

仏教と神道と肉食のタブー

 釈迦が仏教徒が守るべき戒律の第一のものとしてあげたのは、生き物を殺さないという殺生戒であった[p63]。日本では675年に天武天皇(生年不詳〜686年)が最初の肉食禁止令を出し、罠を用いた狩猟と漁撈を全面的に禁止した。4月1日から9月30日は、ウマ、ウシ、イヌ、サル、ニワトリを食べることを禁止するとともに、檻やワナ、漁撈用のヤナの使用を禁じた。この法令は、殺生を禁じる仏教思想に基づいて発布されたと解釈されてきた。しかし、イノシシとシカの食用は禁じていない[p65]。

 弥生時代に日本に導入された農耕文化には、ブタとニワトリを伴っていたが、アヒルとヒツジを欠いていた。また、ニワトリの食用は盛んではなかった[p73]。ニワトリは、神話では神の使者として重要な位置を占め、ペット的な性格を備えた聖なる鳥、目覚まし時計、闘鶏用として飼い続けた。江戸時代以前は鶏卵を食べることも避けられたようである[p66]。食用禁止となっているイヌ、サル、ニワトリもわざわざ禁止しなくても殺すことはなかった。それも、水田農耕の期間にあたる旧暦の4〜9月の間に限っての禁止である。したがって、ウシやウマを食用にすることを禁ずることで、役畜動物の減少を防ぐことが目的であったことがわかる[p67]。

 752年は東大寺での大仏の完成に際して大仏開眼会が行われ、それを記念した女性天皇、孝謙天皇(718〜770年)の詔勅では1年間、すべての生き物を殺すことを禁じた。そのために生計を失う漁民にたいしては生活に困らない量の米を支給した。

 その後も12世紀にいたるまで、何度も動物を殺すことを禁じる勅令が出され、10世紀になると僧侶、貴族、都市民の間で、肉食を罪悪視する風習が確立した。その後は、仏教が農村の民衆にまで浸透し、肉食をタブー視する考え方が普及した[p68]。

 927年にできた法令集『延喜式』では動物の肉を食べると3日間は不浄となり、宮廷で行われる神道の行事に参加する資格を失うとされている[p68]。1318年に制定された伊勢神宮の参拝者のための規定書『文保記』では、イノシシとシカを食べたものは、神宮への参拝が100日間禁じられるとしている。

 神道は、死と血を穢れ(ケガレ)とする民俗のうえに構築された。そこで、動物犠牲を伴う儀礼もなく、出血を伴う肉食はケガレとみなされるようになった[p69]。

武士は軍事教練を兼ねて巻狩りを行い、イノシシとシカを捕獲して食べていたが、一般の民衆が肉を食べる機会は極めて少なかった[p70]。哺乳類を食用にすることがないために、動物の屠畜、皮はぎ、皮革製品の生産に従事する人々への社会的な差別も生じ、神道でいう「ケガれた存在」とみなされた。鎌倉時代には、こうした人々を被差別集団として社会的に隔離することがなされ、その後も、カーストとしての差別が強化され、現在まで続く社会問題となった[p70]。

9世紀―肉と油脂なしの食事の確立

  中国では植物油や脂肪を用いて炒める料理法があったが、中国でも炒め物が発達するのは、宋王朝(960〜1279年)の頃からである[p90]。そこで、日本の古代には油脂を利用する料理法はほとんど伝わらなかった[p89,p90]。伝統的な日本料理の基本的な調理法は、直火焼きの焼き物、煮物、蒸し物、汁物、煮こごり、鱠(刺身の前身)、和え物、漬物だが、9世紀頃には、これらが一般的な調理技術として確立した[p89]。植物油や脂肪で揚げたり炒めたりする料理技術は発達しなかったために、野菜や海藻を煮るほかなかった[p94]。こうした食事に慣れたため、油脂の味は「しつこくて下品な味である」という評価が定着する。19世紀後半に西洋料理や中華料理に接したときに「あぶらっこすぎる」と印象を漏らす人が多かったのはそのためである。現在では日本料理である「天婦羅」もポルトガル人がもたらした料理法である。江戸の市街では串にさして揚げたテンプラが庶民の食べ物として好まれたが、店舗を備えたテンプラ店が出現するのも幕末になってからである[p90]。

 肉食がなされなかったために、動物の使用やバターを利用する料理は行われなかった。ゴマからは食用油を搾ることができたが、極めて高価であったことから、煎りゴマやすりゴマとして使用するのが一般的であった[p89]。

 動物性のタンパク質の摂取源は主に魚に限られていた。日本人にとってのご馳走は魚となり、魚料理が日本料理の首座を占めるようになった。ただし、クジラは魚であると信じられ、食用にされた[p70]。いっさいの生き物を殺すことを禁じる仏教では、魚食も禁じられるべきだが、神道では魚の血液については言及されず、魚と貝は神にささげる上等の供物となっている[p69]。

キリシタンと肉食の影響

 聖フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier, 1506〜1552年)は、マラッカで日本人弥次郎をカトリックに改宗させた。この日本最初のキリスト教徒を案内人にして、1549年(天文18年)に日本に布教にやってくる。ザビエルは、日本人の信者から人々の感情をそこなわないように日本では肉を食べないように忠告をされ、それにしたがっていたが肉なしの食事には閉口していたらしい。

 南蛮船が多く入港したのは長崎と平戸だが、ここではキリスト教の信者だけでなく、胃パンの人々も牛肉を食べるようになった。このため、牛肉の値段が高騰し、食用を目的としてブタを飼育したとの記録も残る。二つの港には中国船も入港していたので、豚の食用飼育は中国の影響である可能性もある。

 また、長崎と平戸ではミサで欠かせないパンも日本の職人によって作られて、ヨーロッパ人に売られていたが、日本では普及しなかった[p112]。しかし、鎖国前後には『南蛮料理書』が成立し、そこには40種類の料理や菓子の作り方が記録されている[p113]。例えば、代表的な日本料理のひとつ「テンプラ」はポルトガル人が伝えた料理法に起源をもつ[p114]。「カステラ」はカスティリャ地方のケーキという意味のポルトガル語「belo de Castella」に由来する。平戸の名物菓子「カスドス」はポルトガル語の「Castella doce」に、愛知県の「タルト」はポルトガル語の「Tarta」に起源を持つ菓子である。また、ポルトガルの砂糖菓子「confeito」は「金平糖」、「caramelo」は「カルメラ」の名称で今日まで伝わっている。卵の黄身を主材料に使って作ったケーキは、長崎から福岡につながり「卵素麺」となった[p116]。

 また、サツマイモ、カボチャ、トウガラシ等の新大陸原産の栽培植物がこの時代に日本に伝えられた。サツマイモはスペイン人がまずフィリピンにもたらし、1593年に中国の福建州に伝えられ、1605年に琉球王朝の使節が福建州を訪れたときに、サツマイモの苗を植木鉢に植えてもらって沖縄の各地で栽培されるようになった[p116]。平戸にあったイギリスの東インド会社の商館長、リチャード・コックス(Richard Cocks,1566〜1624年)が沖縄からサツマイモを取り寄せ、平戸でサツマイモ畑を作った。これが内地におけるサツマイモ栽培の始まりである。

 カボチャは16世紀にポルトガル人によってもたらされた。トウガラシは1542年(天文11年)にポルトガル人がもたらした[p117]。ただし、油脂や油を食べない日本人にとってはトウガラシは強烈すぎるスパイスで消費量が増えたのは1970年代になって肉の消費量が伸びてからである[p118]。

 鎖国に先立ち、幕府はキリスト教を1612年(慶長17年)に発令するが、それとともに牛肉と食べることとパンを食べることも禁止されていたが、中国人の肉食は禁令の対象外であった[p113]。

 鎖国が実施されるとオランダ人以外のヨーロッパ人は国外追放となり、オランダ人も長崎の出島に隔離されて居住し、一般の日本人との接触は禁止された。そこで、オランダの食べ物や習慣が日本に影響することはあまりなかった[p113]。

江戸時代の晩期には普及する肉食

一般の民衆も鳥類は食べることを許されていたし、長い間食することがタブーであったニワトリについても江戸時代前期の料理書『料理物語』にはその料理法が書かれるようになった[p180]。クジラやイルカは魚類とされたので食用の対象となったし、病気治療のためには哺乳類の肉を食べることを認めていた。

 オランダの書物を通じて西洋文明の知識を吸収した知識人の中には、肉食を避けることは迷信にすぎず、肉は栄養に富んだ食べもので、肉食をしないと虚弱になると主張する者もあらわれた。19世紀初頭には江戸市街に薬用の獣肉を売る店が増え、イノシシ、シカ、ウサギ、キツネ、カワウソ、クマ、カモシカ、オオカミの肉が売られた。こうした薬食いは都市民の間では流行したが、一部に限られ、その機会は非常に少なかった[p181]。

 また、彦根藩は牛肉の味噌漬を作られ「養生肉」と称して将軍や大名への贈りものにしていたことは公然の秘密であった。しかし、農耕用に重要な家畜であるウシを殺して食べることは一般人にとっては心理的な抵抗が強かった[p182]。

 牛鍋屋(すき焼きの前身)についての最初の記事は1854年に大阪の適塾に入塾した福沢諭吉(1835〜1901年)が当時大阪に2軒あった店で食した体験談である。

 通商条約で開港された場所に居留地を作った欧米人たちは、付近の農家からウシを購入しようと様々な努力をしたが、売ったウシが食用にされることをしると農民から拒絶された。当時の農民にとってウシは家族の一員に近い存在であり、死んだウシは埋葬されていたからである。外国人たちはやむなく中国、朝鮮半島、米国からウシを輸入し、船中で屠畜と解体を行って居住地で売った。しかし、人口が増え牛肉需要が多くなるとまにあわなくなる。やがて、横浜の居留地の外国人たちは、関西の後背地の山間地が和牛の産地で生産量が多いことを知り、この地域のウシを1度に30〜40頭単位で買い集め、神戸港から横浜港まで生きたまま運び、横浜の居留地内に設けた屠畜場で処理した。その和牛の味が良いのが評判となり、現在でも海外ではコウベ・ビーフとして知られている[p182]。

明治以降の肉食の奨励

 欧米の事情に通じた当時の知識人は欧米人に比べて、日本人の体格が貧弱な理由のひとつが肉食をしないこと、乳製品を食べないことにあると考えた。そこで、1872年(明治5年)に明治天皇が牛肉を食べたことを新聞報道し、一般国民も肉を食べることを奨励した。当時は、肉を食べ、ミルクを飲むことが文明人の資格であるとされた。軍隊の食事でも肉を使用した献立が採用され、都市には西洋料理店が開業された[p175]。

例外であった沖縄

 琉球の人々の信仰生活の基盤をなす土着の宗教はシャマニズムである。明治時代以前には仏教は民衆の宗教として浸透しておらず、獣肉を食べることに対する禁忌はなかった。中国との交易活動を通じて食用家畜は14〜15世紀にブタ、ヤギ、ニワトリがもたらされた[p167]。毎日食べるほどの頭数の飼育が可能な飼料は得られないため、豚肉は祭祀のときのご馳走ではあったが、脂肪、内臓、血液に至るまで、あますところなく食べられた。豚の耳や内臓はいまでも沖縄の名物料理とされている[p168]。

 これに対して、本土では明治時代に肉食が再開した後も内臓は食用にされず、第二次大戦後に朝鮮焼肉が流行するようになって始めて内臓を食べることが普及した。しかし、現在でも、一般の日本人は血液を料理に使用することはない[p168]。

 かつての日本人の食生活ではタンパク質と油脂が欠乏していたが、沖縄では豚と魚によって動物性タンパク質を摂取し、油脂も豚の脂肪から摂取していた。また、海藻の摂取量も多い。これが長寿の原因とされている[p172]。

中国の影響

 南米原産のラッカセイは中国を経由して18世紀のはじめに日本に伝えられたため「南京豆」と呼ばれる。インゲンマメも南米原産のものが中国に伝えられた。1654年(承応3年)に中国の高僧、隠元(1592〜1673年)は京都郊外の宇治に黄檗山万福寺を開設し、黄檗宗の禅を日本に普及した。この隠元が持ってきたため、隠元豆と呼ばれるとされているが、実際に隠元がもたらしたのは別の豆であったようである[p118]。

 湿潤なモンスーンアジアでは草食性の牧畜獣を飼育するには不利なため、多数の家畜を群れで管理する「牧畜」というライススタイルは採用されなかった。家畜の乳を搾って食用とする習慣もなかった。モンスーンアジアでの主要な家畜は、ブタ、ニワトリ、アヒルで、いずれも群れとして飼養するのは困難だからである[p21]。

 古代中国では、ブタ、ニワトリを食用専用に飼育し、北部中国ではヒツジを肉用、中国南部ではアヒルを飼育していた。伝統的な中国の食文化では豚肉と鶏肉の占める割合が大きい[p73]。隣国である中国や朝鮮半島では伝統料理に肉が使用され、パンではなく米飯と一緒に食べることができる。また、ナイフやフォーク、スプーンといった使い慣れない道具ではなく箸でも食べられたので日本人には親しみやすい肉料理であったはずである。しかし、アヘン戦争(1840〜1842年)で中国が西欧に侵略されたプロセスを知っていた日本の知識人はたちは、近代化にあたって中国を捨て去り、欧米の文明をモデルとして採用した。そこで、中国や朝鮮半島の料理は停滞したアジアの食事としてかえりみられなかった。

 さらに、日清戦争(1894〜1895年)で日本が勝利を収めたことが中国を蔑視する風潮を強めた。長崎、神戸、横浜には中華街が形成されていたが、そこの中華料理店に出入りするのは中国人に限られ、中華料理は「前近代的で不衛生な食べ物」とみなされていた。日本人が中華料理が安くておいしい料理であることを認識し、日本の都市に中華料理店が多数出現するのは第一次世界大戦が終了した頃になってからである。朝鮮半島の料理に対する偏見はさらに強かった[p176]。

編集後記

 本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第3章「日本的食文化の形成期」第4章「変動の時代」のうち、肉製品についてのカ所のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

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【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月08日

日本の食文化史�B―乳利用の欠如

牧畜とは乳をメインの食料とするライフスタイル

 乳は栄養面では理想的な食品だが生乳はすぐに変質する。そこで、様々な乳製品へと加工し、保存食品とすることで搾乳が困難な季節の食料とする。牧畜民は乳を飲むというよりも乳を食べる人々である[p73]。つまり、牧畜民の主要食料は肉ではなく乳である[p72]。

 肉食のために屠畜を続けていたら群れが消滅してしまう。屠畜の対象を去勢オスと乳を出さなくなったメスに限定し、なるべく畜群を大きくすることで利用できる乳量を増やす[p72]。だから、牧畜民は一家族でも数十頭以上の家畜を管理する[p73]。

 したがって、牧畜とは草食性の家畜を群れとして管理し、その家畜群からの生産物に依存するライフスタイルのことをいう。雑食性で群れを作らないブタを飼育しても牧畜とはいわないし、役畜としてウシやウマを2、3頭飼育しても、群れとして管理をしていないので、牧畜とはいわない[p72]。

東アジアで欠落していた乳食

2025100401S.jpg バングラデシュとミャンマーの境界をなすアラカン山脈の南東に位置する東南アジアは、乳しぼりの慣行を欠如した地域であることがわかる[p72,p74]。中国では万里の長城を境界としてその北方が乳しぼり圏である[p72]。

 東アジアでは乳は薬用等で稀に食されるだけであった。6世紀中頃に山東省で記された農業技術と食品加工技術書『斉民要術』には、5種類の乳製品の製造法が記載されているが、上流階級の贅沢品や薬品であった。

 朝鮮半島でも牛乳を弱火で煮て「蘇」に加工すること、牛乳で米を煮て粥にすることがなされたが、いずれも薬用で日常の食品ではなかった[p74]。

 日本での乳の利用に関する最初の記録は、7世紀中頃に来日した中国人の子孫、飛鳥時代の医師が650年に孝徳天皇(596〜654年)に牛乳を献じて、和薬使主という称号をさずけられたというものである[p74]。700年(文武4年)に宮廷が命令して「蘇」を作らせたというのが乳製品の最初の記録である。その後も、政府は牛を農家に生産させ、牛乳や蘇を宮廷に納めさせたが、乳しぼりを目的として飼育されていた乳牛の頭数は10世紀にはわずか1,500頭で、人口4,000人に対して1頭いたにすぎない。1975年では国民50人あたりに1頭の乳牛がいることから、当時は乳製品は縁がない製品であったことがわかる。そして、12世紀以降、貴族社会の没落とともに、乳は忘れられた食品となった[p75]。

牛を飼育し牛乳を加工した吉宗

20261002S.jpg 江戸時代には、オランダ語の文献で、西洋の科学や医学を研究した学者が乳製品や牛乳の栄養的価値が高いことを再認識し、1727年(享保12年)に吉宗(1684〜1751年)はオランダ人から乳牛3頭を輸入して、安房嶺岡に牧場を開設。直営牧場で増殖させた。将軍の牧場で得られた乳に砂糖を加えて、弱火で煮詰めて「白牛酪」という固形状の乳製品を作ったが、生産量はごくわずかで、将軍や重心が滋養強壮の薬効を期待して食べただけであった。日本人が乳製品や牛乳を日常の食物とみなすようになるのは20世紀に入ってからである[p76]。

編集後記

 本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第3章「日本的食文化の形成期」のうち、乳製品についてのカ所のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

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【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月07日

日本の食文化史�A―弥生時代と水田漁業

モンスーンアジアに適したコメ

 農学的にも栄養学的にも米はモンスーン・アジアに適した作物である。この地域で栽培される穀物のなかで、単位面積当たりの収量が最大なうえ[p19]、畑作で問題となる土壌侵食や連作障害もない。栄養学的にもカロリー源としてばかりではなく、タンパク質の補給源としても優れ、コムギよりも必須アミノ酸のバランスがよい。体重70�sの人がコメだけでタンパク質を維持しようとすれば、約0.8�sでこと足りるが、コムギで作られたパンだけでまかなおうとすると1日に約3�s食べなければならない。そこで、コムギでのパン食ではリジンやトリプトファンを含む肉や乳製品をあわせて食べなければならない[p20]。

 イネはアフリカのニジュール川周辺を起源とするアフリカ・イネ(オリザ・グラベリマ種)とアジア・イネ(オリザ・サティバ種)がある[p22]。アジア原産のイネは、日本型のジャポニカ種とインド型のインディカ種の二つがある。ジャポニカ種は草丈が短く低温でもよく生育し、イネ粒も短く粘り気がある。インディカ種は草丈が長く低温に弱く、イネ粒は細長く粘り気が少なくぱさぱさした食感を持つ[p29]。長江流域では新石器時代にジャポニカ種が栽培されていたが、この地域のイネが日本に伝えられた。インド型のイネは古代には栽培された形跡はなく、11世紀以降になって何度か導入されたが大規模には栽培されなかった。絶滅した品種を含めると日本では約2,000品種のイネが栽培されていたが、そのほとんどはジャポニカ型である[p30]。

稲の導入で西日本で人口が急増

 縄文時代には人口の多くはドングリ等堅果類が多い中部山岳地帯と東北に集中し、西日本は人口が少ない文化の辺境地帯であった[p26]。しかし、中国の長江下流のデルタ地帯から稲作が北九州に伝播すると人口が急増する[p25]。とりわけ、西日本の人口増加は著しく縄文時代の20倍にも達した。

 2000年前の総人口は約60万人と推定され、それは縄文時代の最大人口の約2倍である。2200年前から2000年前にかけての200年で人口は3倍に増えるが、日本史の中で、200年で人口が3倍以上に増えたのは19世紀から現代までに5倍近く増えたこと以外にはない。

 西日本では小さな集落の集合体であった部族社会が統合され、いくつもの首長国が成立した[p27]。『漢書』地理志では2000年前の日本には100あまりの小国が成立していたと記されている[p28]。

玄米食はなかった

 副食からビタミンB1を摂取することが少なかった過去の食生活ではビタミンB1不足による脚気にかかることが多く、脚気は日本の国民病とされた。都市民の方が精白されたコメを多く食べていたが目、17世紀後半から脚気の記録が多くなり「江戸わずらい」と言われた。田舎に転居すると治ったためである。そこで、自然食運動を支持する人々の間では玄米食が盛んになっている[p35]。そして、17世紀後半から白米を食べることが一般化したと記述する資料があることから、玄米食主義者たちは、これをよりどころにして、古代や中世の日本人は玄米を常食にしていたので脚気にかからなかったと主張する。食物史の研究者でもそれを信じる者が多いが、これは間違いである。

 17世紀後半に回転式の籾摺り機が普及したことで籾殻だけを除去して米糠の部分を残す、現在でいう玄米ができるようになったが、それ以前は籾殻を稲粒から落とすためには木製の臼に稲粒を入れて、長い棒状の縦杵で搗いていた[p36]。このやり方では米糠もある程度ははげ落ちてしまい、本当の玄米ではなくなってしまう。白米に比べると暗色でビタミンB1も完全に失われていないので脚気になることはないが、昔の日本人は現在の健康食品店で売っているような玄米を食べていたわけではない[p37]。

水田とセットで淡水魚から作られた塩辛

 塩辛、ナレズシ、水田稲作は関連が強い。東南アジアでは15世紀以前から水田稲作が行われてきた地域では、塩辛とナレズシが存在するが、焼畑耕作地帯や狩猟採集社会ではそれが欠如している。

 水田は稲作の場であるとともに淡水魚の棲息地でもある。農薬が普及する以前の水田は養殖池のようなもので、水田はコメだけでなく、おかずの魚介類の生産の場でもあった[p47]。水田での漁業は自給自足的な小規模な漁業で農民によってなされる。市場経済とは無関係な活動であるため文献資料にもほとんど記載されないし、現在の日本の塩辛は海産の魚を原料としている。しかし、これは水田での淡水魚の加工として始まった塩辛づくりが、変化したものであろう[p48]。

 奈良県の藤原京からはフナの塩辛を意味する「ふなのひしお」と書かれた木簡が発掘されているが、これが日本における塩辛の最古の文献的初出である。塩辛は塩と魚さえあれば簡単に作れるため弥生時代からあった可能性がある[p49]。

 塩辛は塩分とグルタミン酸のうま味を持つ食品で、醤油のように利用される調味料でもあった。発酵と腐敗は微生物的には同じ現象で、そのカテゴリー分類はそれぞれの文化によって異なる。魚介類の発酵食品になじみのない文化圏では塩辛は「魚のくさったもの」とされる。16世紀後半に来日したイエズス会の宣教師、ルイス・フロイス( Luís Fróis, 1532〜1597年)は「われわれにおいては魚の腐敗した臓物は嫌悪すべきものとされるが、日本人はそれを『肴』として用い、非常に喜ぶ」と塩辛について記している。

 中国でも古代から明代までは麹を加えて作られた塩辛「魚醤」が食されていたが[p44]、加熱しない食品を食べなくなるとともに消滅し、現在は沿岸部の一部のみでしか製造されていない。朝鮮半島やインドシナ半島では淡水魚で作る塩辛が農民の最も基本的な保存食として食べられている[p45]。

塩辛から作られた魚醤油

 塩辛を長期間保存しておくと魚肉や内臓がすべて分解して液体状になる。これが魚醤油である。ベトナムのニョク・マムが有名だが、中国の広東省・福建省・山東省の沿岸部やカンボジア、タイ、ラオス、ミャンマー、マレー半島、ルソン島でも使用されている。日本でもかつては多くの地域で製造されていたが、近代になって醤油が普及するとともに姿を消し、秋田県の「ショッツル」と石川県の「イシリ」が郷土料理の調味料として残されている[p46]。帝政ローマでは「ガルム」が好まれ製造原理は魚醤油と同じだが、独立して発生した[p46]。

水田のナレズシから誕生した寿司

 塩辛に似た食品に「ナレズシ」がある。塩をした魚に米飯を加えて、カメに入れて長期保存したものである[p51]。米飯が発酵して乳酸が生成されるために酸っぱい味になるが、塩辛のように魚肉が分解することなく1年以上も保存できる[p52]。

 ナレズシは古代インドシナ半島のメコン川流域に起源があり、それが中国に伝えられ、稲作農業とともに日本に伝来した。すなわち、ナレズシも塩辛と同じで、水田漁業と関連のある魚の保存法である。

 中国でも明代まではナレズシが食べられていたが、生魚を食べることを中国人が止めたことにともない、西南中国の少数民族のあいだだけしか残っていない[p53]。

 日本では8世紀初頭以降、ナレズシの様々な記録があり、10世紀頃までは、淡水魚で作ったものが多い[p53]。そして、15世紀以降は、アジアの他地域と異なり日本のスシは独自の発展を遂げる[p267]。

 ペースト状に崩れた米飯をとりのぞき、魚だけを食べるものがナレズシであったが[p52]、米飯を捨てずに魚肉と一緒に食べるようになったのである[p267]。

 魚だけを食べる副食品であったものが主食と副食とがあわさったスナック料理としての性格を備えるようになった。そこで、原料の魚も一時期に大量に漁獲される魚にこだわることなく、海の魚が用いられるようになり、常備の保存食品から嗜好食品と化した。

 17世紀になると、乳酸発酵による酸味の生成をまたずに、飯や魚に酢を加えて酢酸の酸味で手軽に味付けをする「早スシ」がつくられるようになる[p268]。中世まではスシといえば、ナレズシのことであったが、短期間で作るスシが出現し、それが主流となったため、古代から作られてきた保存食のスシのことを熟成したという意味で「ナレズシ」と呼ぶようになった[p52]。小さな木箱に飯を詰めて魚を載せ、できた寿司を包丁で切って食べる箱スシも作られるようになり、それが発展して現在の大阪名物の箱寿司となる[p268]。

 また、19世紀の初頭の江戸の市街では魚には酢をせず、手で固め、箸を使わずに手で食べる握りずしが江戸の屋台で立ち食いをする食べものとして流行するようになる[p265,p266,p268]。

 かつては、北海道と九州の南の島々を除いて全土にナレズシがあったと推定されるが、現在は、琵琶湖周辺の鮒ずし等限られた地域の郷土食となっている[p52]。現在ではニゴロブナを原料とするフナすしが名物とされる[p267]。

 現在の握りずしは酢で味付けをした飯に生魚の薄切りを載せたもので、保存食品どころかインスタント食品である[p52]。回転ずしは1958年に大阪で生まれ、いまや世界中にみられる[p266]。スシの語源は「酢し」、すなわち、酸っぱいという言葉であるという[p52]。それでも酢を加えて酢味にしておかなければならないところに昔の名残りをとどめている[p52,p268]。

編集後記

 本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第2章「稲作社会の成立」及び第2部第3章「外食、料理、飲みもの」のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

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【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月06日

日本の食文化史�@―縄文時代

ドングリと魚介類に依存した狩猟採集社会

 約1万6000年前から2900年前までの新石器時代を縄文時代と呼ぶ[p7]。縄文土器はこれまで世界で発見された土器の中でも最も古い[p8]。それ以外の世界では、新石器時代には農耕が始まり、食用や乳用の家畜の飼育が始まるが、縄文時代は狩猟採集に依存し続けた。ソバ、オオムギ、粟、エゴマ、ヒョウタン、リョクトウ等の農作物が縄文時代中期までの遺跡から発見されていることから栽培作物がなかったわけではない。しかし、1,000カ所以上の縄文時代の遺跡の調査結果を総合すると、食用植物の栽培にほとんど依存しない狩猟採集社会であった[p12]。

 主な狩猟動物は、シカとイノシシで多くの遺跡で発見される獣骨の90%以上がシカとイノシシである。それを猟犬と弓矢でしとめていた[p13]。

 複雑な地形をした島々からなる日本列島は海岸線が極めて長く、その長さは米国や中国よりも長く世界6位である。しかも、南方からの暖流の黒潮と北方からの寒流の親潮が沿岸で交わる[p13]。縄文時代には海が高く、とりわけ、関東地方は遠浅の海に囲まれ、潮がひいたときには貝類の採集が容易であった。そこで、全国の貝塚の60%が集中している[p14]。縄文は他の狩猟採集文化と比較しても漁撈活動への依存度が高く、早期の貝塚からもマグロやカツオ等の外洋魚の骨が発見されていることから、船で外洋で漁を行っていたことがわかる。シカの角や骨で作った銛、漁網の錘等の漁具も発見されている。

 そして、縄文後期になると海水を煮詰めて塩を作るための製塩用の土器も出現する[p10]。海藻に海水をかけて天日乾燥することを繰り返し、その海藻を海水で洗って得られる濃縮した塩水を煮詰める製塩法は最近まで行われていたが、縄文時代も同様の方法で塩が作られたであろう[p10]。「万葉集」には「藻塩」を焼いて塩を作るやり方がでてくるが、この方法も縄文時代から存在したであろう[p11]。

縄文中期からドングリを活用し人口密度が高まる

Shuzo-koyama.jpg 文化人類学者、国立民族学博物館の小山修三(1939〜2022年)名誉教授によれば、縄文時代が始まった頃には日本の人口は約2万人程度であったが、4000年前の縄文中期には26万人にまで増加した[p8]。人口が増えたのは、ドングリ、トチの実、クリの実、クルミが利用されたからである[p8]。堅果類の生産性は高い。例えば、クヌギの実の生産量は65�s/10aで水稲の8分の1に相当し、イノシシの500倍にあたる[p9]。

 縄文初期は食料資源の季節的変動に応じて一定のテリトリーのなかを移動する非定住的生活様式で[p15]、狩猟の獲物にも依存していたが[p9]、縄文中期にドングリに依存するようになると定住集落が形成された。関東地方では3人/㎢と狩猟採集社会としては例外的に人口密度が高い社会が形成され、30〜100人くらいの集落が点在した[p15]。

 ドングリはタンニンを多く含むために、そのままでは苦く、「あく抜き」をしなければ食用にしづらい[p8]。縄文初期の遺跡では生で食べたり焼いて食べられるクリやクルミが多い。しかし、人口が増加した中期になるとドングリやトチの実の利用が増える[p9]。

 一般に狩猟や漁業に依存する民族は虫歯が少ないが、縄文人には虫歯が多かった。これは、ドングリ等の炭水化物を多く食していたためである[p16]。

 同じようにカリフォルニアの先住民もドングリを主要な食物として安定した社会を作り上げていた。トウモロコシを栽培する農民と交流し農業をする条件が整っていたが、ドングリに恵まれていたために狩猟採集の生活様式を続けた[p15]。縄文社会では社会階層の分化は認められず、すべての人々が平等な社会であったとされるが[p16]、こちらは、部族によっては貴族階級が出現するほどの成熟を遂げていた[p15]。

編集後記

2026100101.jpg 本節は文化人類学者、食文化の専門家、民博の三代目館長、国立民族学博物館の石毛直道(1937年〜)名誉教授の『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店の第1部第1章「稲作以前」のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

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【引用文献】
石毛直道『日本の食文化史―旧石器時代から現代まで』(2015)岩波書店
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2026年10月05日

発酵論�A―梅干し・味噌・醤油

野菜の乳酸発酵ザワークラウト

 胃には胃液があるため、胃の中では植物はザワークラウトのように乳酸発酵している。人類はそれを食べてきた。例えば、カナダの極北ではカリブーの胃の中で半分消化された地衣類の消化物が冬期の唯一の植物性食品だ[p208]。

 クレール・フレデリックは胃の中で発酵した草を食べることから、ザワークラウトが作られるようになったのではないかと推測する[p209]。はるか昔の先史時代から、世界中の各地で食用となる野菜や草、果実の乳酸発酵は行われてきた。ザワークラウトは前三世紀に中国で万里の長城を建設した人々にも食されていた[p209]。ポリネシア人はココヤシの果肉やパイナップルを発酵させて保存していたし、生の状態では有毒な塊茎は発酵させてきた。発酵だけならば、土器がなくても、バナナの葉を敷き詰めた穴の中できる[p210]。塩もいらない。日本の木曽地方では赤カブの葉ですんき漬が作られている[p211]。だから、発酵による処理は非常に古い[p210]。

梅干し

 果物は糖分が多いために自然に発酵してアルコールになるが、塩分を加えると酵素の働きが抑制されるためアルコール発酵ではなく乳酸発酵になる。野菜と果実を一緒に付けると美味な調味料となる。例えば、日本では青梅を紫蘇の葉とともに発酵させた梅干しが調味料や薬として使われてきたが、アフリカ、アジア、ラテンアメリカではマンゴーを発酵させているし、インドやスリランカではパンノキの果実を発酵させている[p216]。

味噌と醤油

 ヨーロッパではマメ類を発酵させることは希だが、アジアではごく普通にマメ類の発酵食品が作られてきた。中国東北部原産のダイズは5,000年前から栽培されるようになったが、酵素阻害物質やフィチン酸が含まれることから生で食べられることはなかった。そこで、なされたのが、カビや酵母による発酵である。不都合な点が解消され、ビタミンが増えるうえ、タンパク質の消化もよくなる[p218]。

 2300年前の漢王朝から証拠が存在することから、ダイズの発酵は中国で始まったとされる。その技術は7世紀か8世紀には日本へ伝わった[p219]。

 中国と韓国で「ジャン」、日本で「醬(ひしお)」と呼ばれるダイズの発酵食品から作られたソースは、17世紀にはオランダ商人によって日本から「醤油」の名でヨーロッパに輸出された[p218,p220]。ここからこの黒色のソースはヨーロッパでの名称「Soya」の元となった[p218]。タンパク質が豊富に含まれることから、ドゥニ・ディドロ(Denis Diderot,1713〜1784年)の1772年の『百科全書』では、「日本人が作るソースはハムから抽出されたエキスの一種である」と肉から作られるものだと誤って記載されている[p220]。ジャン=バティスト・ラマルク(Jean-Baptiste Lamarck, 1744〜1829年)の1796年の『体系的百科事典』では次のように修正されている。

「日本人はダイズで一種のペーストを作る。このペーストはバターの代わりになり、有名なソースもこれから作られる。彼らはペーストをMiso、ソースをSojaと呼んでいる」。

 ダイズの加工品が日本に広く広まったのは菜食主義を説く仏教が広まったことと関係がある[p221]。

編集後記

 本節は食を専門とするジャーナリスト、マリー=クレール・フレデリック(Marie-Claire Frédéric)の『発酵食の歴史』(2014)原書房の第10章「驚くほど長もちする野菜と果物」のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

【引用文献】
マリー=クレール・フレデリックの『発酵食の歴史』(2014)原書房
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2026年10月04日

発酵論�@―チーズ

家畜の飼育は肉ではなくミルクを得ることから始まった

20261001S.jpg 牽引や運搬等、家畜を殺さずに利用する方法は、6000〜5000年前にメソポタミアで始まり、5000〜4000年前にヨーロッパ、北アフリカ、アジアに広まった。この時、農耕、車輪の発明、ウマやロバの利用が中東やヨーロッパに出現したとされている[p191]。

 そして、それまでは、新石器時代の初期に家畜のミルクが利用されていたはずはないと考えられていた[p191]。けれども、そうした思い込みは近年の考古学的な発見によって覆された[p192]。中東で5000年前のチーズの水切り用濾し器と凝乳(チーズの原型の固形物、カード)の型が発見されたのだ。パキスタンでも5000年前にさかのぼる住居からヤギの乳製品の残渣が付着した壺が出土した。古代エジプトでも4000年前にさかのぼる墓の浮彫りに乳絞りの様子が描かれている。

 西ヨーロッパではさらに古い遺構も発見されている。コンスタンツのボーデン湖畔にある6000年前の農場の遺跡から出土した陶器にウシやヤギやヒツジのミルクの残渣が付着していたのだ。イギリスでは7000年前の乳製品の残渣が見つかり、カルパチア地方では8000年前に遡るものまで発見されている。スイス、ルーマニア、ハンガリーでもチーズが付着した8000年前の陶器製の濾し器が見つかっているし、ポーランドでも8000年前にチーズが作られていた。すなわち、乳製品は今から8000年前から食されていた[p192]。

 さらに驚くべきことは、家畜の肉を食べる前にミルクを飲んでいたかもしれないことだ[p192]。パリの6000年前の遺跡では子牛が殺されていた。これは、授乳期間が終わると子牛が不要となったために処分されたことを意味する。つまり、地中海沿岸のキプロスや中東では1万年前から、ヨーロッパでは8000年前からヤギやヒツジはミルクを得るために飼育されていた[p193]。これはミルクが肉食の二次産物であるとする従来のイメージの再考を迫るものだ。若いうちに殺された子牛の肉は乳製品の副産物であり、その逆ではないからだ。ミルクを得るためにヤギとウシは家畜化されたのであって、肉を食べるために家畜化がなされ、その二次的な結果として乳製品が食べられたわけではないのだ[p193]。

突然変異の前に発酵がなされていた

 現在では、ヨーロッパ人の90%は成人になってもラクターゼを分泌し続ける遺伝子を持つ。場所によって様々だが、カフカスとサハラ以南のアフリカの遊牧民では1万年前、中東と北ヨーロッパではさらに後である。そして、それまでは、ミルクの生産を目的とした家畜の飼育は突然変異の後に始まったとされてきた。つまり、なぜかある日、突然変異が起こってヒトはラクトースを消化できるようになったために、ウシやラクダを飼育するようになったというわけだ。けれども、実際にはそれとは反対のことが起こっていた[p195]。古遺伝学の研究から、当時の人間はまだラクターゼを合成できないこともわかってきた[p194]。つまり、突然変異は家畜化の後で起こったのであり、その前ではない。しかも、突然変異は短期間に起きるのではなく、5000年は要したともいわれる。だとすると、なぜ、人類は身体に悪いものをこれだけ長期にわたって食べ続けることができたのだろうか[p195]。

 結論から言えば、突然変異が生じる前に、発酵プロセスをわがものにしていたからである[p196]。今から1万年前に中央アジアの遊牧民のあいだで生まれた乳酸発酵によるチーズづくりの伝統は8000年前にはアフリカと西ヨーロッパに伝わった[p197]。発酵によってラクトースは完全に消化吸収できる乳酸に変わるのでラクターゼを必要とはしない。すなわち、牛を家畜化する前に、ヨーグルトやチーズを食べていたのである[p196]。

編集後記

Marie-claire-fredericS.jpg 本節は食を専門とするジャーナリスト、マリー=クレール・フレデリック(Marie-Claire Frédéric)の『発酵食の歴史』(2014)原書房の第9章「チーズ−乳製品の最高峰」のまとめである。原文にはさらに多くの情報が掲載されているが、関心あるところだけでも抜き書きしたものである。自分なりの見出しを付けるだけでも、著者が言わんとすることがかなり濃縮されて理解できる気がする。

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【引用文献】
マリー=クレール・フレデリックの『発酵食の歴史』(2014)原書房
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2026年10月03日

肉食論�G―エピローグもはや肉を食べることはできない

世界で急増する肉消費

 世界の人々はいま肉を多く消費している。10世紀初頭の肉消費量は平均で約10�s/年だったが、2013年にはこれが約43�sとなり、現在のペースでは2050年に約53�sとなるであろう。これだけでも、食肉の生産を2倍にしなければならない[p277]。

 例えば、いま、インドではステーキハウスが大流行している。加えて、牛肉輸出国の第一はブラジルだが、インドはオーストラリアを抜いて世界第2位となっている[p252]。もっともインドが輸出しているのは建前上は水牛である。インド国内では肉は「水牛」と表示され、輸出されると「牛」に直される[p258,p259]。PETAの現地支部の話によれば、国内には約3万もの違法な食肉処理施設があり、牛をステーキに加工しているという[p259]。インドも一人当たりの肉摂取量は米国の約125�sに比べて約3�sにすぎない。しかし、消費量は急増している。インド都市部での家禽類の消費量は2000年に対して2030年には1277%になるとされている[p252]。

 ラオスの都市住民では2000年から2030年で家禽類の消費が1049%増えるとされている。牛肉も2000年から2030年にかけて、マレーシアでは牛肉の消費量が159%、カンボジアでは146%増すとされる。中国では現在に加えて、2205万トンもの豚肉が消費されるであろう[p252]。

 中国は20世紀の初期には国民の肉消費量は年間に3�s以下だったが、現在では、地球上の豚肉の半分以上鶏肉の20%、牛肉の10%を消費している。13億人の人口をかかえる中国が米国人が食べているのと同じ量の肉を食べるならば、地球上で生産される豚肉の70%以上が食されることとなろう[p265]。

 こうした変化を科学者たちは栄養転換と呼ぶ。ステージ1の狩猟・採集、ステージ2は農業、ステージ3は飢餓の減退、ステージ4が変性疾患、ステージ5が行動変革である。

 ステージ3では農業は改善されてステージ2での農業とともに始まった深刻な飢餓は過去のものとなるが、まだ食べ物は未加工で素朴なままだ。けれども、その後、砂糖や脂肪がたっぷりの質が悪い食事の段階に入る。欧米がいまこの段階にあたる。けれども、栄養学者たちは、さらに、ステージ1の社会で消費されていたものと似たものを消費する状態に戻ると予測する。つまり、肉の量をもっと減らし、果物や野菜、全粒粉の消費量が増す。現在、アジアで起きていることはステージ3からステージ4への転換である[p253]。

 年収が1,000ドル増える毎に一人当たりの肉消費量はアジアでは1.18�s、アフリカでは1.63�s、中東では3.99�s増えるとの研究がある[p253]。肉を食べると健康が損なわれるにもかかわらず、苦労して稼いだ金が肉に使われるというのだ[p254]。

世界で最初にベジタリアンから転換した日本

 アジアで肉への食欲を最初に、かつ、比較的短期間で確立した国が日本である。ほとんどベジタリアンの状態から肉を愛好するまでになった過程を日本は垣間見せてくれる。中世の日本はベジタリアンも同然の国で、仏教も神道もいずれも植物を中心とした食事を奨励していた。肉を遠ざけた最大の要因は農地不足である。家畜を飼育するには多くの土地を必要とする。そこで、675年には最初の禁止令が発令され、牛、猿、鶏、犬を食べてはならないとした[注][p254]。

 18世紀には肉が健康によいとの考え方がオランダ人によって植え付けられる。やがて、日本人は背が高いヨーロッパ人たちが食べている肉が多い食事が進歩の証であり、封建的で階級制社会との決別の象徴であるとみなすようになっていく。1872年1月24日に明治天皇(1852〜1912年)が公の場で初めて肉を食べ、肉を食べる許可を国民に与える。わずか5年で東京での肉消費量は13倍に跳ね上がった。それは、朝鮮からの輸入で可能となった。

 明治政府は軍を強化する手段としても肉が必要だと考えた。当時、徴兵された者のうち16%以上が152cmに満たなかった[p255]。それでも、1939年の時点でも典型的な日本人は肉を1日にわずか2.8gしか食べていなかったが、それが、現在は133gとなっている[p254]。

Den-Fujita.jpg 第二次大戦後に、日本人は米軍に占領されたことによって、戦争の勝者たちがハンバーグやステーキやベーコンをたらふく食べる姿を目にした。日本マクドナルドの社長、藤田田(1926〜2004年)は「千年間ハンバーガーを食べ続ければ金髪になれ、食を通じて世界に伍していける真の国際人を育成できる」と当時の日本人の間に広がっていた感情をうまく表している[p255]。

菜食主義よりも進歩を求めて肉食が進むインド

 いま、インドで起きていることはかつて日本で起きたことと似ている。その背景には成功者の一員になりたいとい願いがある[p256]。ステーキやハンバーガーを食べることは世界を飛び回る多国籍企業で働く集団に属しているとの印であって、キャリアの上でも役立つ[p257]。菜食主義は保守的であり、時代に逆行しているとの印象がある一方で、肉を食べることは現代化や進歩を表している[p261]。

 欧米の倫理的ベジタリアンからすれば、神聖な牛を殺したり、菜食主義をいとも簡単に捨てられることが理解しがたい。しかし、インドにおいては菜食主義が意味するものは欧米とは異なる[p259]。インドでは食肉用の動物が体験する苦しみについてメディアでとりあげられることはまったくない[p261]。インドにおける菜食主義は牛に対する尊敬の念からではなく、非暴力(アヒンサー)という概念から発展した。アヒンサーとはすべての生命は神聖であって傷つけてはならないとの考え方で、ヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教を貫く共通概念である。つまり、アヒンサーとは暴力がどのように魂に作用して品性を損なうかという人間についての概念であって動物についての概念ではない。だから、自分の手で殺したり、誰かに殺すように依頼しなければ、自分自身の魂を汚す暴力は行われなかったことになり、自分自身には害は及ばない。だから、ブッダは肉を食べていたし、マハービーラもネコが殺した鳩を数羽食べたことがある[p260]。

平等を求めてファストフードが広まる中国

Yan-YunxiangS.jpg 中国で肉消費が増えている理由も日本やインドと似ている。肉は贅沢や富、権力、西洋を象徴するものであり、インドと同じく肉を食べることは旧弊な社会階級を否定することを意味する。人類学者、カリフォルニア大学ロサンゼルス校のユンシャン・ヤン(Yunxiang Yan)教授は「多くの人は平等の瞬間を体験するためにマクドナルドに通う」と書く。伝統的な中国の飲食店では、客の間で贅沢な料理を注文するかで見栄の競争がなされているが、欧米のファストフードのチェーン店では、すべての客が社会的地位や財産に関係なく同じように敬意をもって扱われる[p266]。個人主義や民主主義と関連づけられる欧米文化も体験できる[p267]。これが、マクドナルドやケンタッキーフライドチキン等のファストフード店が中国で繁盛している理由のひとつとなっている[p266]。

 加えて、インドとは違って中国では仏教徒の間でも菜食主義がさほど根づかなかった[p267,p268]。インドでは高貴なものといえば菜食であり、バラモンのエリート層が最高位に君臨していた時代には、民衆はベジタリアンに憧れた[p268,p273]。しかし、中国では僧侶は菜食であっても上流階級は肉を貪り続けた。公の場で社会の和を保つためには肉をわけあうことが求められ、官僚は出世するには肉を食べなければならなかった。菜食主義は高官にはふさわしくないといなされた。また、伝統的な中国の食事療法でも、野菜はおおむね「冷たい」食べ物とされ、疲れたときには「温かい」食べ物、肉で滋養を摂る必要があるとされた[p268]。言葉の影響もある。「家」は「豚」のつくり屋根を載せたものであり、標準の中国語で発音すると「鶏肉」と「魚」は、「富裕」や「豊富」と同じ音になる[p269]。

 中国の一人当たりの農地は0.08haしかない。家畜飼料を国内では生産できない。そこで、中国は海外に依存する。過去十年で米国からの中国への豚肉の輸入量はほぼ十倍に伸びた。その後、中国最大の食肉加工企業、双匯(そうかい)インターナショナルが米国の大手企業スミスフィールド・フーズを買収し、世界最大の豚肉生産者となった。米国はこれでマネーを得ることになったが、反面、肥料で汚染された農地や抗生物質耐性菌を抱え込むこととなった。

 また、中国は国内の家畜用に大量の飼料も輸入する[p272]。トウモロコシやダイズを栽培する農地の多くはアメリカで、一部は東欧、アフリカでも確保されているが、過半数はラテンアメリカだ。すでにブラジルのダイズ輸出量の80%以上は中国向けである。同様のことがアルゼンチンでも起きている[p273]。中国共産党は過去の宗教的な運動と結びついているために菜食主義を警戒している。一方、ブラジルやアメリカから農地を輸入できるために、共産党は肉食を全面的に支持している[p274]。共産党政府は、豚生産者に補助金を出したり、税金を免除したり、保険を提供したりして、国民が豚肉を買い続けられるように計っている[p270]。

誰もが肉を食べるだけのゆとりは地球にはない

 誰もが現在、米国人が食べているのと同じ量の肉を食べたらどうなるだろうか。すでに地球上の農地の33%は家畜飼料栽培のために使われている。2050年に93億人になるとされる全人類が米国風の食事を望むのならば、2014年の肉生産量のほぼ4.5倍が必要となり、牛乳も同量が必要となろう[p276]。

 けれども、牛肉1�sを生産するには約13�sの穀類が必要だし、米国では生産される穀類の60%を家畜が消費している。水もそうで、牛肉1�sを生産するには約1万4,000ℓもの水が必要だ[p277]。だから、欧米風の肉中心の食事を全人類に供給することはできない。肉消費を減らさなければ、気候変動や水不足、環境汚染が避けられない[p301]。

 現在でも人類が放出する温室効果ガスの14.5%が家畜由来だ。地球温暖化を防ぐには肉の消費量を減らさなければならない。2℃の温度上昇を防ぐにはカロリーベースで肉や乳製品の75%を穀類やマメ類の代替えしなければならないと科学者は言う。そう。人類は、フレキシタリアンに速やかに移行しなければならない[p278]。もはや余裕はなくステージ5に移る時代なのだ[p275]。

肉を止めることのメリット

 栄養転換の次に必要なのは行動の変革だ。肉を穀類、野菜や果物、マメ類中心の食事に切り替えなければならない。それには、肉の意味を理解して枷をひとつずつ外していく必要がある。まず、肉の味は、旨味や脂肪、メイラード反応で発生する香気を効果的に取り混ぜた製品で代替えできる。タンパク質はマメで代替えできる[p302]。植物中心の食は健康的なだけでなく、経済的であることも強調されるべきだ[p303]。

 おびただしい数の研究から肉の消費が心臓疾患、糖尿病、癌につながるリスクがあることがわかってきている[p296,p301]。加えて、インドではすでに6,100万人が2型糖尿にかかっているし、2030年にはこの数が2倍になると予測されている。中国でも成人の30%以上が太りすぎた。つまり、1億人が肥満なのだ[p270]。

 ヨーロッパでは乳製品や肉製品への農場助成金を打ち切れば、脳卒中や心臓疾患による死亡が少なくとも年間1万3,000人防げるとの試算もある[p291]。加えて、米国では抗生物質の総量の80%は家畜生産に使用され、毎年2,300人の米国人が抗生物質耐性菌が原因で命を落としている。だから、肉の消費が減れば、抗生物質耐性を懸念する必要も減る[p296]。

 また、ヨーロッパでは2014年の研究から肉消費量を半分にすれば窒素の総排出量が40%減り、大気と水質が大幅に改善されるとされている[p296]。食料生産に必要とされる農地が一人当たり23%少なくてすむ[p297]。そこで、肉課税も必要かもしれない[p290]。もっとも、デンマークで実施された「脂肪税」(飽和脂肪酸1ポンドあたり0.77€を課税)は、家畜産業界の反対もあって短期間で廃止された[p291]。

栄養学の知見を踏まえて文化を変える

 マハトマ・ガンディー(Mohandas Gandhi,1869〜1948年)も明治天皇と同様に一時期は、肉を食べることがインドの近代化に役立つと考えていた。19世紀末には、肉を食べることは国を愛する者の義務であり、インド人がイギリス人と同等の力をつけて強くなり、植民地主義を追い払えるようになるための手段だというのが一般的な認識だった[p261]。

 だが、その後、ガンディーは倫理学や栄養学の本を読み漁り、植物中心の食事は道徳的な観点から優れているだけでなく、健康上にも利点があると確信する。肉を食べてもインドが強国になるわけではない。もしかするとその反対になるかもしれないことを理解する[p262]。実際、インドの伝統的なベジタリアンの食事はタンパク質不足からは程遠い。レンズ豆やエンドウ豆他の豆が50種類以上あり、どれもタンパク質を豊富に含み、コメと一緒に食べれば完全なタンパク質となる。

K.T. AchayaS.jpg インドの料理を研究する歴史家、K.T.アチャヤ(K.T. Achaya, 1923〜2002年)は「インドを除く世界中のどの地域でも3,000年前に厳格なベジタリアンになることは不可能であったであろう」と断言する[p263]。

 文化を変えることはできる。かつて、ヨーロッパではジャガイモは人体には危険だとして豚の餌とされてきた。フランス王室はジャガイモ普及に多大な努力を払った。また、トマトも18世紀までは懐疑的にみられてきたし、ロブスターもかつては貧しい人々の食べ物であり[p299]、ピザも共産主義者の食べ物とされたため米国では流行しなかった[p300]。逆に白パンはかつては社会的地位や富の象徴だったが、いまでは全粉パンに劣るとみなされている[p300]。インドでは牛を食べることが非経済的になったときに牛肉をタブーとした。中世の日本でも動物性タンパク質を育てるための農地がなくなると多くの肉を支配者は禁止した[p302]。

[注] 天武天皇によって出されたもので、主に仏教の「殺生禁断(生き物を殺してはならない)」の教えに基づく。稲作への影響を考慮し、毎年4月から9月までの農繁期(期間限定)で、当時よく食べられていた鹿や猪等は、この時点では禁止の対象外であった。

編集後記
 本節はマルタ・ザラスカの『人類はなぜ肉食を止められないか』(2017)インターシフトの第11章「急速に肉のとりこになるアジア」、第12章「肉食と地球の未来」及びエピローグ「栄養転換ステージ5へ」のまとめである。


【画像】
藤田田の画像はこのサイトより
ユンシャン・ヤン教授の画像はこのサイトより
K.T.アチャヤ博士の画像はこのサイトより

【引用文献】
マルタ・ザラスカの『人類はなぜ肉食を止められないか』(2017)インターシフト
posted by フィデル at 07:00| Comment(0) | 食 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする